イメージは考える ~ 文化の自己目的性について|雑誌『広告』
雑誌『広告』文化特集号 (2023年3月31日発売)
イメージは考える ~ 文化の自己目的性について
アートを自己表現として考えている方々は、「制作」というものをインプットしたもののアウトプットとか、アーカイブされたものへの検索行為として理解している。「どこからこんなイメージが出てくるの」とか「作品づくりには教養が必要」などと言うわけである。すなわち、再現/表象としての作品イメージである。しかし実際には、自己表現を超えた作り手たちは自作品に驚きながら、自分都合ではどうにもならない制作体験をしている。作者はインタラクティブにつくりながらつくられ、モノと協働し、身体図式をメディウムにして、イメージがなりたいようになる手伝いに徹している。そしてこれを「作品自身が考えたこと」だと述懐する。
実のところ、この「アートは自己表現」といったフレームは、ひとつのイデオロギーにすぎないものなのだ。それは文部科学省が義務教育課程にむけて発布している学習指導要領にもプロトタイプとして表れている。そこで強く推奨されている制作プロセスとは、自分の考えや感覚を「工作に表す」ことである。すなわち、ある意味内容を、造形物をツールとして再現/表象していくことなのである。文科省はその「解説」のなかで、この自己表現型創作を「造形遊び」と混同しないよう注意書きを加えている。しかし少し考えればわかることだが、そもそも「遊び」と「学び」とは相反関係にあるものではない。「遊び」が「学び」に進化していくわけでもない。遊びは、すなわち学びであって、集団的な「学び」とは「遊び」がその社会システムのなかで生まれたイデオロギーによって縮約された遊びにほかならないのである。
縮約された遊びとは、遊びを(ルールのある)ゲームへと囲い込んでいくことである。これはヒトという生き物が持っている資質を、社会的なレベルで活用していくプロセスのひとつにすぎない。確かにそれは重要なことである。しかし、ここでしばしば倒錯が起きやすい。たとえば、ある資質がコミュニケーション・ツールとして活用された場合に、これを「その資質はコミュニケーションのために生まれた」と考えたり、ある資質をもっと社会的に活用すべきだとマネージメントしている方々が「社会活用されなければ無意味」と考えたりするような倒錯である。ここで言う「ある資質」のひとつが、いわゆるアートなのだ。
ここにきて、アートを自己表現とすることのイデオロギーは、アートを目的化したり、その有用性を求めたりすることと連接する。さらに言うなら、文化現象を「~に資する」といった手段化によって称揚しようとしたり価値によって証明しようとすることもまた、イデオロギーの所産として、相似的な視角で眺めることができる。これらもまた「遊び」の「ゲーム」化と同じことなのである。
では、手段化や目的化されることにおいてしか、ヒトの資質(アート)は意味を持たないのだろうか。ここでブリコラージュという概念を示しておきたい。ブリコラージュとは文化人類学で「見立て」とか「転用」の働きとして用いられている術語である。これはアートの基底にある働きとも見做されている。さきの「遊び/ゲーム」という腑分けで言えば、ちょうどその中間にある「/」部分に相当する働きである。そしてこのブリコラージュは、生物進化論においても「進化プロセスとはブリコラージュである」という風にしばしば援用されている。実際、さまざまな変異体を制作していくブリコラージュは、さまざまな変異を起こしながら遺伝されていく生命活動ととても馴染みがよいものなのである。それは、ひとことで言うなら「自律性」ということになるだろう。生命体が絶えず変異を起こしながら生命を繋いでいくプロセスにも、アートがアートを制作していくプロセスにも、相似した自律性が見られる。
では、冒頭に述べた「制作」について考えてみよう。「作品自身が考える」ということを「メディウムが考える」と言い換えれば、マーシャル・マクルーハン的なメディア論になる。意味内容がメッセージなのではなく、メディアこそがメッセージなのだというメディア論である。そのメディア環境のなかにいる間は(アーティスト以外には)自覚されないものだが、それが古くなってやっとメディア環境として認知されるというジャンル発生論でもある。あるいは、「作品が考える」ということを「イメージが考える」と言い換えれば、イメージ論になる。紙幅がないので、ここではイメージについて考えてみたい。
イメージは、メディアと同様、視覚的イメージだけに留まらず、五感それぞれにイメージが存在している。だからたとえば、画家に「なぜ画家になったのか?」と問えば「観てしまったからだ」としか答えようがないだろうし、小説家に「なぜ小説家になったのか?」と問うても「読んでしまったからだ」としか言えないわけである。最初に、そのイメージ(メディア、先行作品)に刺されてしまう受贈がある。これがなければ、そのジャンル(メディア)が特化されることはない。いわば最初に贈与の体験がある。これは負債となるものだけれど、その体験自体に非対称性があるので返礼ができない。つまり、返礼として、贈与として、制作せざるを得なくなるわけである。とはいえ、アーティストたちに「なぜ制作するのか?」と問うたとき、「贈られたからだ」と応えられる人はほとんどいないかもしれない。それはすでに原因水準に埋没しているからだ。よって、その応えはその場の、そのときのコンテクストに委ねられることになる。
「イメージが考える」という自律性について説明するために、再び文化人類学を援用しておきたい。クロード・レヴィ=ストロースによる神話論理である。彼はブリコラージュ概念を確立させた著作『野生の思考』(1962年)のなかで、その「野生の思考」をアートと類比しながら、近代においてもなお「野生の思考」が生きている領域としてアートを名指している。ついで『神話論理』(1964~1971年)においては、その構成から内容にいたるまで音楽(芸術形式)をメタファーにしながら神話を語っていく。有名な一節を引いておこう。
わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである。(中略)ある意味では、神話たちはお互いに考え合っている、と想定すべきであろう。
──『神話論理Ⅰ──生のものと火を通したもの』(クロード・レヴィ=ストロース、早水洋太郎訳、みすず書房、2006年)
そして『仮面の道』(1975年)では、この『神話論理』で証明した方法をもって、芸術領域の思考、造形的思考を分析していく。
「神話たちはお互いに考え合っている」というのは、レヴィ=ストロースによれば、ちょうど音楽が音楽からしか生まれないように、音楽が先行するフレーズの変奏においてしか生まれないように、神話もまた神話の変換によってしか生まれないということである。この意味で、音楽家は「聴いてしまったから」音楽家になるのであり、小説家は「読んでしまったから」小説家になるわけである。ただし、このことを論理的思考によって説明することには限界がある。なぜなら音楽を慣習言語に翻訳することが不可能であるように、神話的思考を論理的思考に翻訳することもまた不可能だからである。
人間はこのように相互に翻訳不可能なバイロジックを生きている。ところが人間はイデオロギーによって、これら複数のロジックに優劣や階層構造を付してしまう。学術界においては圧倒的に言語メディウム、論理的思考が優位化されている。そのことに限界を感じていたのがレヴィ=ストロース(や、マクルーハン)で、ゆえに『神話論理』は音楽の形式をなぞりながら、神話のシミュラークル(擬態)として書かれた。すなわち、ひとつの神話として上梓された。このシミュラークルがコピーとは異なって、つねにオリジナルとして産出されるのは、まさに神話=イメージが、神話=イメージの「変換」によって制作されていく、変換作用にあるのだ。
こうして「さまざまな感覚的なものに論理があること、そして感覚的なものに法則があること」を証明し、「ある無意識的に作られたものに共通する意味を与える」ことを意図した大著『神話論理』を経て、レヴィ=ストロースは構造芸術学とでも呼ぶべき造形研究に着手することになる。先述の『仮面の道』である。ここで彼は、インディアン諸族がなしてきた「絶えざる改変」や「常に新しい即興」を西洋社会が理解するためには、ピカソのごとき例外的なモデルを待たなければならなかったと述べる。つまり、西洋はそれまで自らのスタティックな芸術様態を非西洋に投影していたと言うのである。
彼はフレイザー河流域からバンクーバー島周辺に居住するクワキウトル族およびサリシュ族の仮面造形を分析することで「一つの集団から他の集団へと、造形的な形が保有されるときには、意味上の機能は逆転する。反対に、意味上の機能が保有されるときには、造形的な形の方が逆転する」(※1)という構造を見いだしている。そしてこうした事例から、造形もまた神話と同様に、ひとつの造形それ自体として、単独で解釈されうるものではないことを述べている。すなわち、造形作品とは「まずそれが表わしているものではなく、それが変形するもの、つまり、表わさないことを選んだもの」であり、「それが語り、あるいは語っていると信じているもののみによって成立しているのではなく、それが排除しているものによっても成立している」というわけだ。この、表現されたものと表現されなかったものとの相補性、対比関係構造(パラディグム)に、汎人類的に実装されたアートを視ていく眼差しは、意味=機能や、再現=表象によって造形芸術を解釈しようとしてきた近代美学的パラダイムをはるかに凌駕するものである。
そして彼は「絶えざる改変」の内実を明らかにする。すなわち、新しい様式は「先行様式が後から来るものに、はっきり語れと無言で誘いかけていたような別のことをも語る」のだと。これはすでに制作論への遡行でもある。
さて、ここで「神話=イメージが考えている」と述べるときに主語・主格となっているのは「神話=イメージ」である。あるいは、これを「神話=イメージで考えている」と言うときには「人」が主格となっている。この違いは、実のところ主語・主格の違いで済まされるものではない。
「人」を主格にした場合、「考えている」ということが能動性を帯びるのである。だが、かつて中世イスラムの思想家イブン・アラビーが、陶工の仕事をながめる者は陶工が粘土をコントロールしながら制作していると勘違いしがちだけれど、実際には粘土が積極的に陶工に働きかけている(※2)と述べたように、制作とは能動でも受動でもあって、かつ能動でも受動でもない行為なのである。
言うまでもなく、制作とはメディウムその他との共同制作である。ゆえに「これは私がつくったモノです」とは言えない。言った途端に居心地が悪くなる。しかしながら、イブン・アラビーが述べているように、制作の傍観者、第三者には「作者がそれをつくった」と視えてしまう。だから平然と「作者として作品の企図について説明してください」などと無理筋なことを言う。あるいは、再現=表象として、意味内容をカタチにしているだけの作り手たちも同様のことを述べがちだ。この齟齬はありていに何処にでも生じている、意外に悩ましい問題なのである。
制作とは、つくることによってつくられていくインター・アクションである。それは子どもの誕生が「親」を産みだすように、作品をつくることが「作者」を産みだすといった結果論ばかりではない。制作というプロセスのなかで、制作物の変容とともに、制作者が変容していくということだ。いわば制作者は、制作まえと制作あとで、同一人物ではいられないのである。これが制作の醍醐味である。作者は自らの作品に驚きながら制作していく。それが何を表現しているのか、自分が何をしたのかといった意味づけは、つねに遅れてやってくる。生理学者ベンジャミン・リベットが証明した、行為の意図は行為に0.5秒遅れて自覚されるという原則(※3)がここにもある。ところで、レヴィ=ストロースが述べた「音楽は音楽以外のなにものも模倣しない」という構造については、すでに美術家・棟方志功が「わたしは花の絵ではなく、絵の花を描くのだ」(※4)と言い表している。表象(花の絵)ではなく、それ自体(絵の花)としての絵画。それはすでに、何かを表現するための手段ではない。
とはいえ、作品鑑賞において「それはどんな意図を表現しているのか」とか「それは何を意味しているのか」と真っ先に問うてしまう鑑賞者はいまだ少なくない。これはひとえに、意味/意義を問うことが、代替/置換性を問うことであるというジレンマに気づいていないということである。「それは何を意味しているのか」という問いは、「それは何に置き換え可能なのか」と問うことなのである。これはたとえば、アイデンティティというものが持つジレンマにも見られる。「私は何者なのか」と問うことでひとつの答えを得たとする。「私は係長である」とか「私は女性である」と。しかしながら、それは「私」の代替可能性を露わにし、そのことで「私」からそのアイデンティティを掠め盗ってしまうのである。
おそらく、こうした記号的ジレンマは意味世界の根幹にあって、意味作用を支えているものなのだろう。言葉のメディウムを例にした場合は、辞書がわかりやすい。これは意味を調べるための冊子だけれど、辞書が示しているのは実のところ意味ではない。ある語彙が何と置き換え可能なのかを示した置換可能性なのである。よって、辞書を引いた書き手はしばしば、そこに示された置き換えを眺めながら「今回はこの言い換えのほうがふさわしい」と、コンテクストに合わせた言葉選びをしていく。辞書には言葉の意味など記されてはいないのである。
このことからわかるように、作品鑑賞において「これは何を意味しているのか」と問うことは、手持ちのイメージでもって他なるイメージを言い換えようとすることにほかならない。これは自己投影にすぎず、他者としての作品を代替可能性に取り込んで葬り去るような所業なのである。そこでは作品それ自体というものが、他者性とともに消失してしまう。作家ミヒャエル・エンデが読者に対して、作品を「解釈」してはならない、「体験」しなければならないと教唆せざるを得ないのも、この理由である。換言すれば、芸術鑑賞を「理解」から「感染」にまで深化させることへのいざないである。というのは、作品というメディウムは、意味伝達のためのツールとしてあるのではない。むしろ、意味作用のほうがメディウムにとって、ひとつのツールにすぎないのである。だから作品とは、意味的解釈をされるべきものではなく、メディウムそのものとして感染してくるものになる。それはメディウムのなかで変換され、変奏され、化生し、変容していく体験である。
そしてこれは制作プロセスで起きていることへのいざないなのである。たとえば、エンデはこう述べている。「それは外からもやってきます。わたしがほとんどなにも手を加えなくてもよいような、なにかが生まれることもあるのです。言葉は作家が作るわけじゃない。それは表れるものです。その触れ方がやさしくあればあるほど、表れるものは多く、言葉がおのずから贈与してくれるものも多くなります」(※5)。それは「やってくる」。それは作者のコントロール下にはなく、やってくるのである。
そもそもアートの原義である技術というのは、ヒトが他なるものや非人間的なものと接触するインターフェースに生じてきたものである。それはすでに述べたように、ヒトの管理下にはなく、ヒトとそれとの協働なのだ。藝能がサトとヤマとの境域、または共同体と外部との境界で育まれてきたことも、このことと入れ子構造をなしている。そして、こうした始源性と呼ぶべきものは、個々の制作者たちの制作プロセスにおいても明滅しているわけである。繰り返すが、制作者たちは制作をとおして自己変容していく。エンデいわく、「書くという冒険がわたしをどこに連れていくのか、わたし自身にさえわかりません。ですから、どの本を書いたあとも、わたし自身はちがう人間になりました。本を書くことがわたしを変えるからです」と。
そして作品は「完成」する。ただし、この「完成」もまた、作者のコントロールを超えている。画家のO JUN 氏は、先日いただいた私信のなかでこう述べておられた。許可を得てここに引用する。
描いていると、今度は絵から勝手に私に三行半を突きつけられて、それこそ“おいてけぼり”を喰わされます。ことの終始には全然自分が関われない。とても無責任な言い方なんですが、描いている時は自分はただの動態でしかなく、なので作品の成立とか責任とか言われると困るのです。私の思惑というものはこちらの都合でしかなく、現れる絵にしてみれば預かり知らぬ事なのでしょう。(※6)
まさに御意である。「企図・構想」をカタチに表すという(文部科学省的な)制作においてのみ「完成」という概念は成り立つ。しかし最初の「企図」が存在しない、もしくは制作プロセスのなかで無効化されるときは、「完成」という概念もまた無効となる。それを「完成」と見做すのは、例の陶工を眺めている部外者だけなのだ。実際に制作者が感じていることは「おいてけぼり」なのである。
イメージにまつわる、あるいは制作にまつわる、基本的なことを書き連ねてきた。最後にもうひとつ、もっとも基本的なことがらを確認しておきたい。
視覚芸術は、視覚による芸術ではない。美術家とは造形的ロジックで思考する人たちである。音楽家が音楽的ロジックで思考し、小説家が文学的ロジックで思考しているのと同じである。造形的ロジックというのは造形のなかに八識(※7)すべてが相即していることだ。音楽的ロジックならば音楽のなかに全感覚が相即し、文学的ロジックであれば文学のなかに全知覚、全意識が相即している。だから、視覚芸術とは、視覚による芸術ではなく、視覚のなかに八識が相即し、重合している芸術のことなのである。ヒトはそうした複数のロジックを、互いに翻訳不可能なバイロジックを、往来しながら生きている。言うまでもなく、そこには優劣関係などまったくない。国語や数学よりも美術が下位にあるなどということはない。これは基本的なことだが、イデオロギーはそこに序列を与える。どちらが知的か、どちらが生産的か、どちらが汎用的でコミュニケーティブか、と。そうした道具化は、ヒトの資質に対する縮減であり、不敬である。かつて数学者の岡潔はこう述べていた。
私は数学者なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。
──『春宵十話』(岡潔、毎日新聞社、1963年)
文:中島 智
中島 智 (なかしま さとし)
芸術人類学。美術大学を卒業後、造形研究としてコートジボワール・セヌフォ族の村に滞在調査。その後、中国雲南省・ナシ族、モロッコ王国・ベルベル人などを調査。名古屋芸術大学、武蔵野美術大学、慶應義塾大学、東京藝術大学などで教鞭をとる。著書に『文化のなかの野性──芸術人類学講義』(現代思潮新社、2000年)など。
脚注
※1 『仮面の道』(クロード・レヴィ=ストロース、山口昌男・渡辺守章訳、新潮社、1977年)
※2 『意識と本質──精神的東洋を索めて』(井筒俊彦、岩波書店、1983年)
※3 『マインド・タイム──脳と意識の時間』(ベンジャミン・リベット、下條信輔訳、岩波書
店、2005年)
※4 『板極道』(棟方志功、中央公論社、1964年)
※5 『ものがたりの余白──エンデが最後に話したこと』(ミヒャエル・エンデ、田村都志夫編
訳、岩波書店、2000年)
※6 O JUN画伯からの私信(2022年3月13日)。先日(2022年11月19日)のお便りにも「作品も私の描くそばから勝手に寄り道をしてゆくのでそれに引かれるように右往左往の日々でした」と記されてあった。まさにミシェル・フーコーが述べるところの、それを「生かす」のではなく、それを「生きたままにしておく」という作法が、氏の作画において実現されている。
※7 八識……仏教における8つの意識作用。 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・ 末那識・阿頼耶識